第十二航空隊は、日本海軍
爆撃機・攻撃機・戦闘機からなる特設の戦爆連合部隊として編制され、
日中戦争序盤に華中方面で戦闘・爆撃に従事した。

昭和12年7月7日、盧溝橋事件が勃発し、日中の武力衝突が始まる
海軍は事件からわずか4日後の11日に6個航空隊の大陸派遣を決定する
戦略爆撃を担当する第一連合航空隊は木更津海軍航空隊と鹿屋海軍航空隊、
制空を担当する2個航空隊と偵察を担当する2個航空隊は「第二連合航空隊」を編制した。
第十二航空隊は二連空の攻撃・戦闘部隊として佐伯海軍航空隊から30機を選抜して
編制し、華中方面に投入された。


昭和12年(1937年)
7月11日 佐伯飛行場で臨時編制。第二連合航空隊に編入
(戦闘機12・艦上爆撃機12・艦上攻撃機12)。
7月28日 
二連空は第二艦隊附属に編入。
8月7日  
大連の周水子飛行場に進出。
9月7日 
上海広大飛行場の制圧完了。広大に進出。
9月19日 
蘇州・杭州・嘉興を十三空と共同で偵察。
9月16日 
南京を十三空と共同で空襲、27日まで連日出撃。
9月19日 
南京空襲時に敵戦闘機隊と空中戦。十三空と共同で14機を撃墜・喪失なし。
9月22日 
江陰方面で中国艦船を十三空と共同で爆撃。寧海・平海・逸仙を撃破。
10月1日 
上海上陸作戦を十三空と共同で支援。
10月頃  
蘇州江渡河作戦を十三空と共同で支援。
11月頃  
杭州湾上陸作戦を十三空と共同で支援。
12月12日 
「パネー号事件」発生。十三空と共同でアメリカ砲艦パナイを誤爆。
昭和13年(1938年)
1月10日 
戦闘機隊は蕪湖に進出。前線の戦闘に従事。
昭和13年
4月28日 
漢口を十三空と共同で爆撃。
6月26日 
南昌を強襲。機銃掃射で19機を地上撃破。
7月14日 
漢口・南昌を爆撃。
以後、漢口攻略作戦に従事。11月15日の陥落まで全力出撃。

昭和14年(1939年)
9月14日 
陸軍カン湘作戦に協力。

昭和15年(1940年)
1月10日 
桂林を爆撃。
4月   
宜昌作戦に参加。占領後は宜昌に進出、奥地爆撃・防空に従事。
15年夏より零式艦上戦闘機の供給開始。以後、重慶爆撃隊の護衛に零戦を投入。       

9月13日 
重慶上空で零戦の初空中戦。
進藤大尉率いる零戦17機が中国軍戦闘機27機撃墜を報じる。
(中国側資料によれば13機)
成都攻撃
1940年(昭和15年)9月、華中方面の前線部隊12空 (司令長谷川喜一大佐)に配属され、
1940年(昭和15年)
10月26日昼、「長谷川部隊の戦闘機隊」を指揮して成都に対する戦闘機単独長駆襲撃
(第三回成都攻撃)を実施し、
新津北東の上空で中華民国軍機10機(「E15型戦闘機」x5、フリート練習機x4、輸送機x1)と交戦して全機撃墜、
1940年(昭和15年)11月6日に公開された『日本ニュース』第22号で「敵機撃墜の八勇士」として報道された。

第三回成都攻撃における飯田隊所属の「零式艦上戦闘機」11型8機の編成と操縦者は以下の通りであった
指揮官 飯田房太大尉、二番機 光増政之一空曹、三番機 平本政治三空曹、
第二小隊 一番機 山下小四郎空曹長、二番機 角田和男一空曹、三番機 岩井勉二空曹、
第三小隊 一番機 北畑三郎一空曹、二番機 大木芳男二空曹。

また、角田和男によると昭和15年、12空在隊当時、「零戦」の活躍によって、
飛行隊が支那方面艦隊司令長官より感謝状を授与され、我々搭乗員も喜んでいた中で、
一人飯田大尉は浮かぬ顔で、
 「こんなことで喜んでいたのでは困るのだ。空襲で勝負をつけることはできないのだぞ。
戦闘機は制空権を握って攻撃隊、艦隊の安全を確保し、
海軍は制海権を握って陸軍の輸送の安全を確保するのが任務だ。
最後の勝利は陸軍の歩兵さんに直接足で踏んでもらわなければならないのだ。
砲兵も工兵も歩兵を前進させるための掩護部隊にすぎない。
その陸軍の歩兵が重慶、成都を占領する見込みがなくては困るのだ。
今、奥地攻撃で、飛行場に全弾命中などと言っているが、重慶に60キロ爆弾一発落とすには、
爆弾の製造費、運搬費、飛行機の燃料、機体の消耗、搭乗員の給与、
消耗など諸経費を計算すると約千円かかる。
相手は飛行場の爆弾の穴を埋めるのに苦力(クーリー)の労賃は五十銭ですむ。
実に二千対一の消耗戦なのだ。こんな戦争を続けていたら、日本は今に大変なことになる。
歩兵が重慶、成都を占領できないなら、早く何とかしなければならないのだ。
こんな感状などで喜んでいられる状態ではないのだ」
と話されていたことが、鮮やかに思い浮かんだ。飯田大尉こそ、
私の11年半の海軍生活の中でただ一人だけ、
この人とならいつ、どこで死んでも悔いはないとまで信服していた士官だったのである。


昭和16年(1941年)
3月14日 
成都を強襲。空中戦で7機撃墜・27機地上撃破。
5月21日 
重慶向け爆撃機隊の護衛に参加。
9月15日 
内地帰還・解隊。

昭和16年度は対米英戦を睨んで出師準備に着手することとなり、
十二空は内地帰還とともに新規基地航空部隊の拡張・新編要員に振り向けられ
十二空の撤退によって、海軍航空隊は大陸から完全に手を引き、
大陸戦線の航空戦は陸軍飛行隊に一任されることになった。

主力機種編集

九〇式艦上戦闘機
九六式艦上戦闘機
零式艦上戦闘機
九四式艦上爆撃機
九二式艦上攻撃機

参考 修羅の翼 Wikipedia®
 
 
 


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