Photo BBS 
零戦編
  Mitsubishi(Nakajima)Type Zero Carrier Fighter
   参考資料、協力作画等、協力大歓迎掲示版に書き込まれた記事や、
   発表したい方々の希望をかなえたいと思いこのコーナーはあります
   又、本等の記事等参考に簡単にまとめました皆さんの意見でこのページはできています、
   だだ、私管理者の勘違い等がありますので間違い等見つけられたら
   掲示板等でご連絡いただけたら幸いです、今後ともよろしくお願します。


修正前の3
ここ数年上のイラストの数字のV-103の3がこの3になっていました。

下のイラスト2007年10月1日「ろ」タイプの3に変更しました。
このHPを参考にされていた方々にご迷惑おかけしました。


台南航空隊、V-103、17年4月以降、作画、管理者2007年10月1日修正
塗装編
1、作画、文、 ふじいさん(坂井三郎機と一般に言われている機)





 西沢搭乗機UI−106、豊橋の第251海軍航空隊時


 高橋さん言葉より参文
台南空零戦21型(A6M2)V-103号機
優一郎―鷲―高橋―pleak「考証」
(我が家の趣味の世界BBS 2002年12月31日)

製造番号;三菱3647
完成月日;2−3−20(昭和17年3月20日)
自重;1713.8kg

坂井三郎氏は、昭和17年8月7日ガダルカナル攻撃で負傷した時の搭乗機であったと述べている。
その後8月26日から10月25日の間にガダルカナル島で被弾、墜落。
搭乗員(氏名不詳)は戦死。

残骸の調査から判明した塗装と表記 機体番号 黒のV-103
胴体帯 赤色の斜め帯1本(日の丸の後ろ数cm)尾翼帯 白色の水平帯1本
(機体番号の上3cm、幅10cm)

台南空の零戦21型「V-103」号機は、その残骸が1993年にガダルカナル本島の湿地帯で
発見され、坂井さん本人からもそれが8月7日以前に坂井さんの塔乗機であったことが確認されています。
この残骸からは搭乗員の遺骨も発見されていますが、
V-103号がいつ撃墜され、その時の搭乗員がだれであったかはわかっていません。

ただ、この残骸を調査したチャールズ・ハーゲン(米国)らのグループの記録があり、
マーキングについても確認されていますので記載します。

お断り
一般的に愛機と呼ぶ自分専用機は基地部隊にはなかったので搭乗したことがあるとします。
「空母艦載機の場合は着艦というむずかしい作業を伴うため機体の癖を知るという理由から
個人の搭乗機が決まっていたとされる。」

左の図を参考に
@1994年ガダルカナル島の沼地で発見されたV−103号、三菱3647号 坂井三郎氏は、
本機が昭和17年8月7日の負傷時の搭乗機であったと述べている。

A昭和30年代より流布されてきたV-103の塗装(坂井氏への取材に基づくものと思われる)

Bこれも古くから知られる坂井氏の乗機V-128「零式艦上戦闘機のすべて」(昭和36年 高荷義之 画)には
負傷時の乗機とされこれは坂井氏への取材によると言われている

C昭和17年8月7日負傷して帰還直後に報告のため指揮所へ歩く坂井氏の写真の背後に写っているV-138号
尾翼帯の色、および胴体帯の有無は推定

味方機識別帯
濃緑黒色を採用した昭和18年7月以降から昭和19年末迄を前期、20年8月迄を後期として前期では幅広、
後期では幅狭であると一般には解説されているのだが、
昭和19年以降に撮影されたとする写真を検証すると味方機識別帯の幅が前期、後期で幅が変わっているとは安易に述べられない。
写真を見て感じる事は三菱機では味方機識別帯は幅広、中島機では味方機識別帯は幅狭となっている。
一次資料等が発見されない限りこの事を断定する事は出来ないが、
会社別に味方機識別帯の幅を変えられた様に感じとれる。
 
キヤンバスシート





 
キヤンバスシート
 
零戦11型の全面単一塗装は「明灰色」一色とされ「胴体後部の色のトーンが変化している」ように見える機体は当時、
非常に大切に扱われていた為で基地にある時には必ずキャンバスシートの専用カバーが掛けられていた。
これはキャノピーや操縦席内部の電装類等の保護が目的で特に6月〜11月の中国大陸では多くの黄砂が遊浮しており、
キャノピーの表面に付着すれば、ガラス表面が擦りガラス状になる恐れがあり
これを防止する為に大型のキャンバスシートが機体に掛けられていた。
常に陽のあたっている部分とキャンバスシートにより影になっている部分とでは、
紫外線による塗装の退色の度合いやワックス層に吸着した黄砂により
艶が異なる為に生じた現象であり、機体外面色を2色に塗り分けた訳では無く、ましてやワニスを上塗りしたものとは考えられない。
尚、主翼の補助翼内側迄キャンバスシートで覆われていたのは、
翼内の燃料タンクの温度上昇を防ぐ目的が在った為で、もしも主翼内側がキャンバスシートで覆われていなければ、
ベーパーロックを起こす確立が非常に高くなり、それを防ぐためキャンバスシートが翼まで伸びていたと思われる。
(注:ペーパーロック=燃料管が暖められた時など管内に蒸気泡を生じて
燃料の流動が妨げられる現象)

※野外係留時にシートを掛ける際は、夜間または降雨時の結露対策も当然含まれていたと考えられる。
結露による水分は、見えない部分(特に燃料タンク内部)の腐食を呼ぶため、航空整備では特に警戒して、
野外駐機では燃料を常に満タンにする(タンク内の空間をなくすため)のが原則。  



色について
空技報0266には、「現用零式艦戦用塗色はJ3(灰色)のやや飴色がかりたるもなるも光沢を有する点実験塗色と異れり。 」と
零戦の塗装について説明されているが、零戦は元々「表面は磨き仕上げなり」で光沢があり外面塗料の上に
直接塗られる迷彩塗料が総てツヤ消しだった為に報告書上で敢えて説明されているものと思われる。
では、現存している零戦二一〜三二型の外鈑塗色が灰色では無く緑褐色である理由として考えられるのは
外鈑表面に残る経年変化により風化(チョーキング)した灰色部分をケミカルタワシ等で除去した結果、
緑褐色(下塗りの色)が表面に出てきたものと思われる。
猶、戦時中に米軍が撮影した零戦のカラー写真の中には、退色した灰緑色の機体が映っており緑褐色では無い事を確認出来る

今さらの感がありますが・・・赤鷲の撃墜マークを28個も描き、後世は海軍兵学校で余生を送った有名機を塗装図にしました。
これら初期の12空や14空や3空の零戦の面白いところは、
胴体日の丸を境にして前後で色が違って見える事です(実際は主翼上面もそう見えます)。
そこで注目したのが、漢口の12空、ハノイの14空、ケンダリーの3空等の一群の零戦写真です。
焼け付く日差しから操縦席や燃料タンクを守るため、すべて共通のシートが掛けられているのですが、
これが丁度、胴体は日の丸の前半まで被われ、主翼は翼内銃あたりを境に内側約1/3程度が被われた呈をなしています。
シートを外した状態の写真では見事に前述部分から前はツヤ有りの暗い塗装に見え、後半はツヤもなく明度も明るく写っています。
これらから判るように、胴体前後が別の色に見えるのはただ単に塗装が褪せているだけなのです。
白黒写真だとそれがあたかも2色に塗り分けているように見える・・・それだけの事です。
また、12空機で他に110番台の機体の写真が見当たらないところから、
この112号機の機番号そのものに疑問がある旨の論文もあるようですが、
蓮尾隆市大尉の航空記録には111、112、113、115、116、117、118、119各号機の記載があり、
この112号機には16年4月23日に搭乗したことが明記されています。
なお、12空の岩井 勉中尉はこの撃墜マークのモチーフを「鷲」と明言されています。
 
  昭和17年セレベス島ケンダリーに展開する3空の一連写真を見ると、
焼けつくような日差しを遮るように零戦にキャンバスシートが掛けられている。
シートが外された機体は胴体前後で色が違って見えるが、これらは褪色によるツヤの差と言うべきで、
実際に色が違っている訳ではない。このキャンバスシートは3空のみならず、
12空、14空、二式水戦部隊でも同じシートを掛けている写真が現存している…このことから、
このシートは初期の零戦の「標準装備品」と考えられる。
  カウリングのスリット
カウリング側面にスリットが無いように見える機体には
上部カウルフラップが外されたり、上部カウリングの一部がカットされたりしている事から、
12空の11型に施したカウリング加工には2パターンが在ったと考えられる。

図の様にカウリング上下にスリットを同一円周上に設けてしまうと、カウリング自体の強度が低下してしまうようにも感じるが、
エンジンの冷却効果を上げる為にはカウリング下側にもスリットを設けたとも考えられ不確認ながら、図にはスリットを描いた。

横空で未だ十二試艦戦が飛行試験中だった昭和15年頃、海軍航空本部には中国戦線から航続距離の長い護衛戦闘機の
配備要請を受け未だ飛行試験中の十二試艦戦を15機中国戦線へ配備する事を
昭和15年7月に決定し、主な実用試験を戦地で行う事で昭和15年7月以降第一陣と第二陣が漢口へ進出し同年7月24日付けで
正式採用機され「零式一号艦上戦闘機一型」となった。
漢口へ進出した十二試艦戦だったが、
とりわけエンジンのシリンダの温度上昇が問題だった。
これは栄エンジンの滑油冷却器の性能が不十分だった為で、しかも気化器の混合比制御系統(ミクスチャー弁)の不具合も加わり
現地での根本的な解決には至らず現地では応急処置として、エンジンカウリングに幾つもの穴を開け冷却効率を上げる一策を考え出された。


2003年4月
 
 
味方識別塗装
翔鶴の零戦17年頃  
イラスト上は写真を元に再現したイラスト
下零戦カラー図 基本ベース
ふじいさんから頂いた零戦作成ソフトによる
(作画 管理者)


隼鷹の零戦17年頃 
51は仮番号下写真で確認できる機(イラスト作画中)
イラスト上は写真を元に再現したイラスト
下零戦カラー図 基本ベースふじいさんから頂いた零戦作成ソフトによる
(作画 管理者)
開戦初期に措いて三菱製と中島製の21型には外見上の区別は
無かったが昭和17年4月18日のドーリトル空襲により、その年の夏に味方識別について協議を行い陸海軍で合意に至り、
「軍用機味方識別に関する陸海軍中央協定」
軍令部軍極秘一六二として、昭和17年10月5日より実施された事により味方識別塗装が行われた。
 
1、飛行機の標識翼上下面の翼端に近き所、及胴体中部の左右両側に大なる日の丸を掲く。
2、迷彩せる飛行機は、胴体両側の日の丸標識を方形国旗標識とし、若しくは日の丸標識の周囲に幅約75mmの白輪を描く。
3、翼前縁の内側約半分を左の如く塗粧す迷彩せる飛行機は黄色迷彩せざる飛行機は赤色又は黄色 
但し、練習機、実験機等は差支えなき限り、第一号所定の日の丸の外、全機を黄色に塗粧す。
 
厳密には昭和17年10月5日より実施とあるが、それ以前に描かれていたのでは?と思われる
写真が存在し判然としない。  注:中島製の機体の胴体日の丸には白縁が描かれていた。
搭乗員の国籍標識
国籍標識
搭乗員の飛行服の右腕
航空半長靴は後期のは短い
一部の本では国籍標識が
両腕に有るイラストも・・・
(右左 作画管理者)
搭乗員の国籍標識(一般に言われていること)
昭和20年2月16日、17日の両日、米第58任務部隊は硫黄島への日本軍の増援を阻止する為に関東地区の
航空施設を制圧する目的で空襲を行った。
17日の迎撃に上り、横浜市上空で米軍艦載機からの射撃を受け被弾、落下傘降下した横須賀航空隊の山崎 卓上飛曹は、
米軍パイロットと間違われて、興奮し暴徒と化した住民に撲殺されてしまった。
この事件が起因となり、横空の羽切松雄中尉の発案等により同飛行隊に措いては事件の翌日18日より国籍標識の取り付けが実施され、
搭乗員の飛行服の右腕(海軍では左腕に階級章が在る為)や
飛行帽に縫い付けられる様になった。
※昭和20年4月30日には、正式通達により飛行服各部への
日の丸の縫い付けが指導されている。陸軍で日の丸を付けるようになったのは正式通達以前の
昭和20年4月中旬頃からで、恐らく4月7日のP51初来襲の影響か決号作戦準備の一環ではないかと思える。
しかし実施は一斉ではなく、内地でも部隊によっては5月下旬でもまだ実施されていなかった。

1つの疑問
山崎上飛曹の受難がきっかけというのは多くの記述があるのでそうなのだと思います。
しかし、「横空の羽切松雄中尉の発案によって事件の翌日18日より」というのは、
本当なのでしょうか?
確かに羽切さんの著書にはそう書いてありますし、
渡辺洋二さんの写真解説で2/18とある302空の写真に腕に縫い付けた日の丸が写っています。
けれども、近いとは言え翌日に別部隊に展開済みというのはあまりに早いうえ、
その後陸軍も含めほぼ同一形態で広く行き渡っているところを見ると、
羽切さんも発案者の一人ではあったのでしょうが、広く行き渡ったのはやはりそのような通達が出たのでしょう。
それが羽切さんの提案に基づくものなのかどうか、日付の特定は更に難しいのではないかと思っています
582空飛行隊長 進藤三郎大尉機


作画、ta.gucc
 582空飛行隊長 進藤三郎大尉機。『隊長マーク3本、機番181』は
元582空整備員、山本実氏の回想による。
零戦の型式、その他の塗装マーキングは18年始めごろとして同隊他機からの推定。
情報提供YUICHIROさん

プラモデル情報
この度、タミヤから1/48の零戦22型が発売されるらしいですね…。
前作の52型と同じく決定版になることでしょう。まことに喜ばしいことです。

さて、新作22型には「582空飛行隊長機」として、
黄色の帯(シェブロン)を2本つけた173号機のデカルが入るらしい。
確かに、2本帯つき173号機は写真で確認できる。
また、機番号は確認できないものの同じく2本帯つきの191号機なるものも
「582空飛行隊長機」として書籍等で発表されてはいる・・・が、しかしである。
本来、日本海軍航空隊では飛行隊長機標識は「3本帯」の筈ではなかったのか? 
こちらのHPではかなり以前から、元582空整備員の証言による3本帯つき181号機が
「582空飛行隊長機」として紹介されている。

何ゆえ、上記2本帯の173号機や191号機を「飛行隊長機」とするのかその根拠は知る由もないが、
おそらく「これらの機体にも搭乗したことがある」・・・と言うところではないか?
飛行隊長機標識が3本帯である以上、真の「582空飛行隊長機」と言えるのは181号機であろう。
2010年5月
381空機

上のイラストふじいさん作成


作画、管理人、
まだまだ完成とはいえないが・・・・・
ふじいさんのイラストがあるからこれくらいで

381空機
世界の傑作機5 P60にある濃緑黒色迷彩の中島製21型の垂直尾翼が
味方識別の為だと思うのだが、比較的明るい色で塗装されている。
白黒写真故明確に色を断定する事が出来ないので。
垂直尾翼はオレンジに近い黄色だったと想像している皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
パネルライン


パネルライン(情報提供、絵塗師さん)
零戦11型1号機から48号機迄は上半角の変更を出来る様に
第12、13リブの間に繋ぎ目が在るが、49号機以降では繋ぎ目は設けられてない。

注)図は21型で、フラップ上面のラインは
アリューシャンのアクタンに不時着した空母「龍驤」のD1-108号を参考にしています。
写真によっては、このラインが確認出来ない機体も存在します。


ロシア零戦のライン
 
一説には三菱製の機体の脚カバーや脚室内部は翼下面塗装、
中島製の機体の脚カバーや脚室内部が青竹色に塗られているとの説は、
単にマフラーからの排気ガスが脚カバーや脚室内面に吸着し黒ずんだ色になったのを白黒写真上から推理した為に
中島製の機体の脚廻りは青竹で塗装されていると判断されものかもしれません。
脚廻りは地上滑走時に水たまりを横断したり、土砂を含んだ水沫を浴びたりするなど
最も悪い環境条件に在るので防錆塗装として塗られた
青竹がそれ程高い防錆性が在るとは思えない。しかしながら、大戦末期に措いて脚室内部が無塗装とされている機体こそが、
ジュラルミン表面に塗られた青竹がタイヤによって巻き上げる砂埃で剥離した様に見える。
世界の傑作機bX P56の写真を見ると、その様に思えないでしょうか?
尚、車輪開閉覆(半月状カバー)に取り付けられている開閉覆操作桿(U字型アーム)は、
クロモリ鋼で脚柱と同じ黒で塗装が施されている。   
 
注)写真上からの考証の為、事実とは異なる箇所も在るかも知れません
最近では青竹色の機体や下面塗装の機体両方有ったと情報も有ります。
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