Photo BBS |
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皆さんの意見でこのページはできています、 だだ、私管理者の勘違い等がありますので 間違い等見つけられたら掲示板等で ご連絡いただけたら幸いです、今後ともよろしくお願します。 参考資料、協力、作画等、協力大歓迎 掲示版に書き込まれた記事、や本等の記事等参考に簡単にまとめました。 |
烈風11型(A7M2) Navy Mitsubishi Carrier Fighter 17-shi Reppu Mk.11 |
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従来の烈風のフラップ上面の歩行禁止線や
ノルナのステンシルの考証は不鮮明な写真から 行われているのだが、 三菱製の機体だった事を考えると雷電の様な コの字型の歩行禁止線やステンシルだったと考えられ 機首上面の反射防止塗装も機体がオレンジだった頃は、 しっかり塗られていることを考えると 暗緑色に塗変えられたとしてもこの部分を塗り残された 可能性も在るかと考えられる。 つまり烈風にも雷電に似た塗装スタイルが踏襲された 可能性が高く戦後米軍によって撮影された 烈風の写真の一部に色付け作業を行うと 機首上面が黒色で塗られていたのでは?とも思えるのだが、 残念ながらこれだけで安易に断定する事は出来ないので機首上面に反射防止塗装が施された可能性も高いとさせて頂く。 主翼のエルロンバランスタブの位置は従来伝わっている説が 間違っている可能性が高く、 これはエルロンのバランスタブが上側に折り曲げられていると、 主翼を折畳んだ際にバランスタブと主翼の折畳部分が 干渉してしまう為に主翼が 折畳められなくなる理由からである。 写真で判断する限り主翼折畳み部から250mm位?の 間隔が空いていたと考えられる。 情報、監修、解説、masaさん、 作画、おかちゃん |
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愛知 99式艦上爆撃機11型〔D3A1〕 Navy Aichi Type 99 Carrier Dive-bomber Mk.11(D3A1) 空母飛龍艦載機 |
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水平尾翼に描かれていた偏流測定線には明確な規定が無く、
水平尾翼前縁の一部と昇降舵部分が描かれている機体と 水平尾翼の前縁から昇降舵の後縁迄を偏流測定線が 描かれている機体が混在していたと考えられる。 「BIIー214」のオリジナル・プリントの 水平安定板前縁には「白い点々」が4ツ確認出来、 しかも古い「丸エキストラ」に載った「AIー207」が 発艦中のムービーのコマ撮り写真では、 不確かながら白いラインがあるように思える。 もしも現在流布している様な赤色ならば、 もっとハッキリ見えると考えられる。 主翼上面にはフラップの作動角を示す指示線の 目盛と歩行禁止線が在りフラップ作動角指示線と 歩行禁止線は赤色で、 フラップの作動角を示す数字は黒色となっている。 機番号 BIIー214は 真珠湾攻撃時は・・・ 第2次攻撃隊・第1中隊/第26小隊/2番機で、 操縦員・清村 勇2飛曹/偵察員・清水好生2飛曹が搭乗、 自爆未帰還となった機体です。 情報、監修、解説、masaさん、協力優一郎さん
作画参考、航空ファン、写真写真提供協力( photo)Mr. David Aiken 作画、管理者、
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愛知 特殊攻撃機 晴嵐〔M6A1〕 Navy Aichi Special Attacck-bomber Experimental 17-shi Seiran(M6A1) |
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現在流布している晴嵐の塗装は戦後アメリカ国内で 撮影された写真を元にしているが、幾つか不明瞭な点が在った。 日本側からアメリカ側へ機体を引き渡す際に 晴嵐の国籍マークは日の丸から星へと 塗り替えられてるのだが、 アメリカ国内で機体を展示された時には 再度日の丸へと塗り替えられると同時に 明灰色がアメリカ側でリタッチされた可能性が高いと思われる。 つまりスミソニアンでレストア以前の状態で 保管されていた当時の機体の写真では、 明灰色とされている外板の部分、フロート支柱、ラジエターカバー、 胴体等の下地に暗緑色がある事を考えるとリタッチされた 可能性が高いと考えせざるを得ない。 カラーリングの考証は、戦後日本国内で撮影された 晴嵐のカラー写真を参考とした。 情報、監修、解説、masaさん、協力優一郎さん 作画、おかちゃん |
アメリカ国籍マークと機体の銀色に関して 晴嵐の機体の国籍マークが日の丸から星へと 塗り替えられたのは昭和20年7月17日頃に 塗り替えられたと考えられ、 機体の塗装が銀色へ塗り替えたのは大湊入港後の 昭和20年7月22日頃でないかと 当時の関係者だった方達、高橋一雄氏、 坂東宗雄氏、齋藤七郎氏、吉越繁雄氏、内村藤一氏、 南部清伸氏、渡辺正(旧姓船 田)、浅村敦各氏の 談話から思われる。 図のフロートに関しては機体と乗員の収容を考慮していな 奇襲作戦で発艦時にはフロートを機体に 装備されない事になっていた為、 フロートは銀色にはせずに暗緑色のままとした。 情報、監修、解説、masaさん、協力優一郎さん 作画、おかちゃん |
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川西局地戦闘機 紫電21型甲(N1K2−Ja) Navy Kawanishi Intercepter Fighter Shiden 21kou(Shiden-kai) 紫電改 343空撃墜マーク機 |
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作画2003年11月8日 |
今回は有名な割には資料が少ない
343空・戦闘701飛行隊の紫電21型を紹介する。 作図の元になったのは、元701飛行隊の搭乗員A氏が 当時描かれた「343ーC71号」のスケッチ画で、 胴体右側面に11個の撃墜マークが描かれている。 撃墜マーク詳細は添付の図のように、 F6Fと思われる黄色の飛行機に赤い矢が刺さったデザインで、 こちらはA氏が所持されている撃墜マークの写真から 忠実にトレースしたものである。 車輪カバーには機番号「71」が赤で書かれているが、 これは「すべての機体に書かれていた訳ではない」との由だが、 かなりの機体に書かれていたことが現存写真でも確認出来る。 スピナ先端の色は 「終戦間近になって全機黄色に統一した」とのことである。 機番号の書体は、終戦時の大村空の格納庫内に残された 「343ーC6*号」の写真に基づいた。 尚、A氏の言ではこの71号機は 「松場秋夫少尉(操練26期)が主用した」とのことである。 情報、監修、解説、優一郎さん、 作画、管理者、優一郎さん、 参考資料:A氏のスケッチ、未発表写真、及び談話 航空ファン(1974/9)、世界の傑作機bT3、 |
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一式陸攻 Navy Mitsubishi Type 1 Atack-bomber(G4M2) |
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終戦時、厚木基地に措いて米兵により撮影された 奇妙な一式陸攻を紹介する。 この機は尾翼番号(教1360)に見られる通り、 本来、搭乗員、整備員の教育実習の機体として 用いられていたものと思われるが、 終戦時にはオトリ機として使用されていたようで、 よく見るといろんな機体のパーツが流用されている。 この機体のベースは明らかに「一式陸攻22型」であるが、 機首部分は同11型のものが移植されている。 カウリング上半分は「銀河」のものが流用されているが、 下半分は不明である(一見、紫電改のカウリングに酷似しているが 外板分割ラインが一致せず、これは今後の課題としたい)。 プロペラにはカッターのオール状のものが 代用されているのが判る・・・ 尚、この機を「一式陸上輸送機」と解説した資料もあるが これは明らかな間違いである事を記しておく。 情報、監修、解説、masaさん 作画、おかちゃん 参考資料: ”Meatballs and Dead Birds”、 ”BrokenWings of the SAMURAI” (AirlifePublishing・1993)、 「サムライたちのゼロ戦」(講談社・1995) |
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中島 特別攻撃機 橘花 Navy Nakajima Special Attack-bomber tatibana |
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木更津基地に措いて飛行試験を行った
橘花1号機には実用機同様の機体上面に暗緑色、 機体下面には明灰色、主翼前縁には 黄色の味方識別帯が施されていた。 機体上面色の暗緑色は機体下面迄オーバーラップし、 前脚カバーは未装備である。 機体後部に装備されているU字管のテールスキッドは、 鋼管だと考えられる事から黒色ではないかと考えられる。 写真上からは、防禦の為に装備された厚さ55mm程度の 防弾ガラスが操縦席前面に装備されているのが確認出来る。 昭和20年8月7日の11分間の初飛行後、 11日の公式飛行時には当該機のパイロットだった 高岡迪氏は26分位の燃料搭載量と証言して 折り凡そ正規の50%程の搭載量で飛行試験を行ったと 考えられる。 第2回目の公式飛行時には初めて 離昇用補助ロケットを使用したが、 結果的に離昇用補助ロケットによる推力線の下方移動により離陸する事が出来ずに滑走路をオーバーランしてしまった。 尚、公式飛行の離陸時に前車輪がパンクした様
に感じたのは前輪のシミー(減衰運動)による 振動だったと考えられ、本来前輪式の機体には、 シミーダンパー(Shimmy damper:航空用語解説を参照)を 装備して減衰防止をする必要があるのだが残念ながら 橘花に装備されたシミーダンパーは不調だった様である。 情報、監修、解説、masaさん、 作画、管理者、 作画参考 航空ファンイラストレイデット NO 38、99、 日本陸海軍計画機 (株)光栄 作画2003年10月 |
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中島18試局地戦闘機 天雷(J5N1) Navy Nakajima Specially Intercepter Fighter 18shi Tenrai(J5N1) |
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今迄、天雷のカウリングの色に関しては、
戦後横須賀基地で撮影された写真の機体のカウリングが 機体上面の暗緑色とトーンが比較的近い事もあり 明確な色判定が出来ずに暗緑色と言われて来たが 今回検証してみた所、カウリングの色は黒色で在る事が判った。 排気管の位置に関しても現在流布している図では 中央部分とされているが、拡大した写真で確認する限り カウリングの上方と下方に分散している。 尚、垂直尾翼に描かれた機番記号の色に関しては、 横須賀基地で撮影された天雷の後方に写っている 彗星の垂直尾翼上部の黄色とは、同じコントラストとは 断言出来ない為、従来通りの白色とし機体下面色に関しても 実用試験に用いた同機が比較的目立つオレンジ色を その間々踏襲していたとは考えられず、 又オレンジ色に見られるコントラストとも違う様に見える為に 明灰色の間々とした。 1号機:昭和19年年6月20日に完成し
初飛行は翌月の7月8日に行われた。 8月18日には、脚故障による胴体着陸により機体損壊。 2号機:昭和19年11月25日に墜落。
低速時の操縦安定性を向上させる為に、 主翼後縁に導風板が取り付けられているのが外見上の特徴。 (ナセルストール防止のため試験的にフラップ変更) 3号機:横須賀基地で実用試験中に終戦。
1号機と比較しカウルフラップ、 主脚カバーに変更を受けている事が確認できる。 4号機:昭和20年7月10日早朝、
米軍の第38任務部隊による艦載機攻撃により被弾し戦後、 左エンジンを下ろされた状態で撮影された機体が該当する 可能性が高い。 5号機:計測員の座席を操縦席の直後に設け複座型風防を
装備し昭和20年8月10日から、 三沢基地において実用試験中に終戦。 6号機:5号機同様の複座型風防を装備した機体で
横須賀基地において実用試験中に終戦。 ※1号機は修理後30mm斜め銃2門装備する様に改修されている。
戦後横須賀基地で米軍により撮影された3号機と
6号機の胴体左側上面には斜銃用の貫通孔が 2箇所設けられている様に見受けられるが、 これは機体の表面積を減少させる為に胴体内部に 設置された電信席の為の明かり取り窓だと考えられる。 5〜6号機は夜戦用の複座型とされているが、 上記の通り操縦席後方には計測員の為の座席を設けた事から 複座戦への改修が目的だったとは言い難い。 低速時の操縦安定性を向上させる為に、 主翼後縁に導風板が取り付けられたのは2号機以降と もいわれるが、写真を見る限り主翼後縁に 雲形状の導風板らしきものが1号機から 取り付けられている様に見える。 。
情報、監修、解説、masaさん 作画、おかちゃん |
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