本機は、昭和47年ラバウル北西のニューブリテン島ランパート岬沖約250m、
水深8mの海底から引き上げられた機体である。
「昭和20年1月9日、53-122号機に吉沢徳重(徳三説あり)上飛曹が搭乗して
出撃した際に米軍戦闘機に補足され、ラバウル西方約50kmのランバート岬沖250mの海上で撃墜された。」
との説もあるが日本での修復の際、撃墜に至る様な致命的なダメージ(エンジンや燃料タンク等への被弾)が
見受けられない点を考慮すると、堀知良中佐が証言される「2機しかなかったラバウルの複座零戦の2番機は、
未だ完成していなかった筈だし、1機目の複座機は何らかの理由で飛べなかったと思う。
複座機が在ったのなら、9日と10日の飛行に使われた筈だが、この両日は単座機が飛んだ。」
又、昭和20年4月以降に複座零戦がツルブ方面に敵上陸部隊の偵察に飛行しており、
この機体が燃料切れによりランバート岬付近の海上に不時着するとモールス信号を発信し不時着してる事から、
この機体が国立科学博物館の展示機である可能性が高い。
複座機への改造は108航空廠の北河喜久技術大尉が中心となって複座機への改造作業が行われ、
複座によって全長が長くなった風防には破損して破棄されていた
97式艦上攻撃機の風防を取り外し複座機の中央固定風防として用いられている。
平成16年11月の新館オープンの際には機首のエンジンカウリングはエンジンが見え易い様にとの配慮から
外されて展示されているが、カウリングも観たいとの要望から現在、
筑波実験植物園内にある収蔵庫に保存されているカウリングを早ければ今年中に新館へ運び込み展示の計画がある。
因みに再展示の際には、エンジンマウントと主桁の疲労が見られた事から補強作業が行われている。
又、再展示の初期案としては主翼外板を剥がし主部構造を見える様にしようとしたが、
予算と納期の兼ね合いから従来通りの展示に落ち着いた。
※余談では在るが零戦の主翼は2本桁応力外皮構造であり桁は曲げモーメントと剪断荷重を受け持ち、
外板と桁ウェブで囲まれた箱型断面がトーションン・ボックスを構成して捩り荷重を分担してるのだが、
もしも初期案通りに主翼外板を剥がしてしまうと疲労が進行してる主桁だけで捩り荷重を受ける事を意味し、
機体へのダメージの進行が早まってしまう恐れがあったであろう。