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零戦アルバム 呉の零戦 呉市海事歴史科学館 詳しくは大和ミュージアムHP |
写真提供 優一郎さん。おかちゃん。呉市海事歴史科学館 写真掲載許可済み HP公開2005年9月11日 琵琶湖の引き上げ零戦について、 昭和20年8月6日210航空隊の吾妻常雄中尉搭乗機がエンジントラブルで着水 引き揚げ後は京都嵐山美術館、南紀白浜ゼロパーク(経営母体は同じ)での 保管の悪さもあって年々痛みが目立ちましたが、 2002年に呉市が一億円で買い取って、呉市海事博物館で 展示するための化粧直しをされ2005年5月公開されました。 |
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お宝映像館に有ります。 提供優一郎さん |
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参考本 零戦秘録(KKベストセラーズ)・中島飛行機の研究(日本経済評論社)他・・
取扱説明書で、A6M7ヨリ(実施)とされている水平安定板結合金具を鋼板製にすることや 胴体下面外板の増厚・25番爆弾架の設置等は、52型乙の生産された時期の 昭和19年9月頃に計画されて作成されており、 その事は乙型以降の52型丙あたりから暫定的に実施された可能性が考えられ、 中島第82729号機の結合金具が鋼板製であっても62型の可能性が高いと言えるだけの証拠にはならないのであろう。 装備されていた木製計器板に関しても 63型の生産が中止された時点で、初期ロット分として製造されていた 計器板が早々に52型丙の生産ラインに用いられただけとも考えられる。 又、昭和20年3月の戦時日誌に62型の記述があったとしたとしても時期的には微妙で、 第82729号機が62型の可能性が高いとしか言えないであろう。 前述の戦時日誌の記載が正確な物と仮定すれば、三菱では同年2月頃から62型が製造されていた事を意味する。 中島での型式の転換生産は、2〜3ヶ月程遅れて次型への生産に移行する訳であるが、 中島第82729号機の製造年月日が5月6日頃と推定される。 戦後、厚木基地で接収された機体(62型) の シリアルナンバー中島第53556号機から逆算すると、 中島での62型の生産は5月下旬頃ではないだろうか。 3月から5月にかけての空襲により、脚柱・油冷却器・高圧ゴム管・ボルテージ レギュレータ等の部品供給が中断する事になり、小泉工場の月産機数は昭和20年5月の302機をピークに 7月175機、8月105機と急速に減少して行く。 |
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呉の復元前の写真 写真提供 呉市海事歴史科学館 写真をクリックすると大きくなります。 |
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広島市に本社を置く潟}ツダE&Tにてエンジンが分解され保存整備が行われた為に
内部の構造等が写真から確認出来る。 一部のシリンダ・ヘッドに動弁腕室蓋(Rocker box cover)が見受けられないが、 シリンダヘッド内部の状態を確認する為に外されていると思われ、失われた訳ではない。 1、火災説! 後列のシリンダであるが、ヘッド部分の後部には熱に因る溶融痕が在る事から エンジン後部から出火した影響と考えられる。 因みにコネクテング・ロッドから取り外されたピストンの写真も在るが、 右側手間のピストンヘッドには焼損した痕が認められ、恐らくは逆火(Backfiring)の影響ではないかと思われる。 つまり、何らかの理由で混合気が薄過ぎて炎速度が遅くなり、排気工程の終わり迄燃焼が続き、 バルブ・オーバーラップ時に吸気管内の混合気に着火し、その炎が吸気系統迄伝わった可能性が非常に高い。 それを示す様に気化器含む周辺のダメージが大きく、しかも付近のホース類には焼け焦げた痕が残っているようにも 思える。 しかしながら操縦されたいた搭乗員さんの話では火は出ていないとの証言があり、 長い間、琵琶湖に沈んでいた為に、腐食もあり判断は難しい。 |
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呉海事博物館の写真 2005年5月13日撮影 写真提供 おかちゃん |
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